最近の読んだこと考えたこと
こういうことを書く場所がこの個人サイトくらいしかない気がしたので、まあ一旦ここに書いてみることにする。
産業革命、そして世界史を学ぶ
昨年(2025年)にティム・オライリーがAIコーディングの発展に際して産業革命のメタファーで語ったことから、産業革命について興味を持って学んでいる。

産業革命については「いや産業革命などなかった」みたいな言説もあるくらいで、調べるほど「産業革命ってなんなのか?」、いや「“革命”ってなんなの?」って気持ちになってくる。
“産業革命”という言葉自体、1837年にフランスの経済学者に「“産業革命”のせいでイギリスの民衆が大変なことになってる」みたいな意図で使われたという事実が興味深い。イギリスの産業革命といえども100年程度のスパンはあって、もちろん急激な社会変化ではありつつも実際には徐々に変化が起きている。1845年にエンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』をまとめるときには、もう産業革命と整理されるような事象が始まってから50年以上経つのであって、過去を調べて整理するところから入らなきゃいけない。
このとき”革命”という語が使われたことには、フランス革命の影響があるとされている。フランス革命はのちの世界に多大なる影響を与えた世界史的に重要なイベントであるが、そこに生きる人々から見れば地獄だったと思っている。命を賭して革命したところで別に幸せにはならない。
革命と呼ばれるものは、価値転換であって価値向上ではないのだろう。構造が変わり、価値が転換し、新しい需要と供給が生まれ、それによって嬉しい人と苦しむ人ができて、しかし総体としてそれにより人間が幸せになったとも不幸せになったとも言えないことが起きる。産業革命であれば、人間の寿命が大幅に延びたことが人類にとって大きな前進と呼べるのかもしれないが、それだって一体幸せになっているのかどうか。
以下は特に自分の思う疑問を解説してくれている非常に面白い本だった。例えば「なぜ絹織物だったのか?」ということはずっと疑問だったから。

同著者の有名な『砂糖の世界史』もついでに読んだが、これも読みやすくて面白い。「植民地主義ってほーんと最低!」と改めて思うと同時に、やっぱりグローバリズムを肯定しながら植民地主義を簡単に否定できないよなー、と考えてもしまう。

世界史は本当に無知なので、基本的なことから勉強するしかない。
テクノロジカル・リパブリックと革命に対するバランス感
そうして、ようやく『テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来』を読んだ。著者がパランティア経営陣という話題の書。

自分の理解では、総じて「ヒッピーたちのせいで世界はダメになってる。技術者はもっと信念とか持とうぜ」と言っている。そのために国家や戦争が持ち出されるのは、まあ時代状況であるとして。パランティアはもともと911を受けて設立されたのであるし。
もちろんヒッピーたちにもその時代状況において命をかけるほどの信念があったし、この本でいう”エンジニアリング・マインドセット”は単にこの本のロジックにより導かれたエンジニア観では?とか思うわけだが、いずれにせよ「今のIT業界ってイマイチじゃない?」「IT業界って口では偉そうなこと言ってる割に何も世界を変革してなくない?」という気持ち自体はよくわかる。
そして産業革命のことを思い浮かべる。パランティア自体や個別の主張の正当性がどうこうよりも、こうしたパランティアの主張に象徴されるような”AIによる産業革命”は、一体どういう価値転換なのだろうと想像する。それに紐づく形で、過去の革命とは一体何が最高で何が最悪なのだったか、これまでの革命はどうして行われたのだったか、と考える。
自分自身の回答と思うようなことはまだ書けないのだけれど、その辺りのバランス感を少なくとも自分は考えていきたい。なので世界史とか経済史とかの苦手分野をもっと押さえないとなあと思う。それはこの時代に、ぼくの人生の選択のために必要なのだろうと思う。
突如として冒頭の個人サイトの話に戻るのだが。もしもインターネットがWWWではなくXanaduだったとしたら、つまりすべてが相互リンクであったならば、もっと世界に密に繋がっている感覚があったのではないか?と想像する。そうであれば自分が2000年代に感じていた個人サイトの印象とは全く異なるものだったはず。ディレクトリ型検索エンジンとか掲示板とかアンテナサイトとか、そういう”広場”に行かなくては繋がっていなくて、ホームページはあくまで自分だけの新しい家=Homeだった。神林長平の『言壺』とかを思い浮かべる。
やっぱりWWWで良かったのかなと思ってしまうし、Xanaduではうまくいかなかったのではないか、と思ってしまう。全部が繋がっていないからよかった。密結合でないからよかった。ぼくの思考はもちろんそういうことの影響下にある。
『急に具合が悪くなる』を観た
ところで、ようやく先日、濱口竜介監督の『急に具合が悪くなる』を観た。

構造をゆらがせることを説く極めて構造的な映画、という変な映画だと思う。「なんでこれは映画なんだろう?」とパッと思ってしまうが、まあある種のミステリ/ループものゲームみたいなポストモダン小説のテイストなのかなあと。世界の構造の外側を目指す。
一番大きな感想は、「こんな風に皆が演技をして生きることが本当に人間の幸せなのか?」という疑問だった。
人間社会にはびこる演技的なことに自覚的になったほうがいろいろうまくゆくと思うし、演技には確かに境界を曖昧にする/揺らがせる力があると思うし、ぼくも日々の仕事で実質そうすべきと人に言っているところがあると思うし、そうやって演技をすることで救われる人がたくさんいることもわかる。のだが、一方で絶対に演技なんてしたくないと考える人間もたくさんいる。
ぼくはずっと自分のことを”ぼく”だと思っていて、断固として”私”と言いたくない。仕事で”私”と言わされるくらいなら仕事辞めるとか、本気で思っちゃっている。「“私”って言ったほうがつつがなく人生が回るよ」と言われても知ったことかと思う。
認知症や終末期医療として、認知症やマイノリティの人間を人間でないように扱うのはもちろんよくないと思うし、人間に見えなくなってしまったものに向けて自覚的に演技として振る舞うことはきっとよいことなのだろう、たぶん(他にどういう考え方があるのか知らないけど)。ただし作品上ではそうした医療行為と仕事を結びつけてしまっているから、人生のすべてに”演技”を適用してしまっているように感じる。しかしそれはやっぱり同じではないのでは?って思う。
「大人になれ」みたいな啓蒙を感じるし、みんなで「みんな同じであるというフィクションを必死で保つ」ことがそんなに幸せなことなのか、ぼくにはよくわからない。あるいは、それが「国民統合としての国民国家というフィクションをみんなでちゃんと作り守ったほうがいい」と言うのとどう違うのか悩んでしまう。「構造の外側へ」なんて言えば言うほど、ますます構造に縛られて「本当は外側なんてない」って見せられているようにも感じる。
当然ながら、人は無為に死んでいく。意味を与えようとすればするほど意味がないことに悩む。二人の実在の人間たちの手紙をこのように映画化することってそもそも倫理的にどうなんだ、と感じるところもある。
まとまらないけど
人間、すぐ国家とか人類とか未来に繋がる大きなもののために何か果たすことを「意味があることだ」と捉えることをやめられない。生き死にには確かに意味がある、と言ってあげることを止められない。アレクサンダー・C・カープが言うように国民国家が今のところ一番マシな統治だというのもわかる気がする。
とはいえ、歴史を知るほど、ずっと人類は同じことを繰り返している気がするし、人類の悩みもずっと変わってなくて全く進歩などしていない感じがする。少し前に『枕草子』(の解説本)を読んでいてもつくづく思っていた。
世界史や経済史を学んで知りたいことは、誰が、どういうときに、なぜ、何を考えて、何を望み、何をしたのか、というようなこと。マクロから入って、ミクロにそのときの人間の考えや感情を知りたい。そういうものでしか本当には人が学ぶことはできないのではないかな、と思ってはいる。